上野株式会社

ロイヤルタイムス109号(平成19年3月1日発行)

コラム「ぎなた読み」

ぎなた読みということをご存知だろうか。先ごろ、ふとしたことからこの言葉を思い出したのだが、「弁慶が、なぎなたを持って」と句切るべきところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と誤って読むことを言い、広辞苑などにも載っていよう。その好例を一つ。  弁慶が数珠を作ろうと遣いを頼んだ。間違わないようにと紙に書いて渡した。(ふたつにおりてくびにかけるじゅず)。数日後仏具屋が注文品出来たと持参した。弁慶はそれを見てこんな大きなもの注文しなかったよと言って断った。仏具屋は弁慶のメモを取り出し、「ちゃんとふたつに折りて首にかける」と書いてあるじゃありませんか。弁慶、「それはお前の読み違いだ。ふたつに折り手首にかける」と読むんだ、という話し。句読点が大切だという綴方か何かの時間だったろう。ぎなた読みは、少し前まであった電報にはよく有ったという。息子から電報が来た。「カネオクレタノム」。親父すぐ返電した。「ダレガクレタノムナ」。解説するまでもないが、息子の電文は(金送れ、頼む)だったが、親父は(金を呉れた飲む)と読み、飲んだくれの息子のことだからと、とにかく飲むなとなった。  蛇足だが、電報料金は10字までが定額で、あと一字増すごとに加算される仕組みだったから句読点などはほとんど省かれた。だからぎなた読み的な誤読はまだまだ有ったことだろう。  ところで、このぎなた読みということを思い出したきっかけはある友人の話からだった。これはぎなた聞き(こんな言葉はないと思う)の面白い、というより考えさせられた話だった。この友人は絵が上手いので老人クラブ絵画グループの指導の真似事をしているが、ある時その老人の一人から「先生、キョウヨウがあるって有難いことですね」と言われた。友人はそうだね、だから我々もいくら年を取っても新聞や本を読み、教養を深め・・・と話したら「先生、違うんです、私が言ったのは今日、用があるということは・・・」と訂正された。友人は自分の早トチリ、カンチガイを詫びて、その老人の述懐を聞いたという。そして人間は老若男女を問わず、今日用があるということは有難いことなのだと改めて知ったし、特に老人クラブに居るような人達にとっては、今日用がある、自分にしなければならないことがあるということは、決して大袈裟ではなくその人にとっての生甲斐なのだと思ったと友は話していた。  さて我々は、朝目覚めて今日用がある、自分を必要としている人、あるいは時、場所が有るということに、どれだけ思いを馳せながら生きて来ただろうか。それがどんなに有難いことだろうかと思って生きてきただろうか、と改めて自分に問うていた。